三河屋さんのメモ帳

三河豊田が好きなことを探すブログ。

【雑記】読書記録(16年1月期)

今回は読書記録。

毎日通勤の時間は読書学習(?)の時間にあてています。

そんで。

今年は40冊の本を読むことを目標にしているので、その記録がてら、ブログのネタにしようというのが今回のエントリーです。

ちなみに読む本は、小説/ラノベ/雑誌以外。

40冊の内20冊は技術系の本、という縛りを科しています。

縛りプレイです(笑)

ちなみに、今回のエントリーは、うろ覚えで書いているので、間違いがたくさんあることが想像されます。

ので、話半分ぐらいに読んでいただければ、って思います。

本の「使い方」 一万冊を血肉にした方法 [出口治明/角川新書]

1月1週目(5日~)

実家に帰省した時、新年から読む本がねぇ! って地元の本屋さんをたくさん(?)めぐって出会った一冊。

とても面白かったです。

本っつーのは、著者との一対一の対話であり、寝転がって読んだりするのは間違っている。ネクタイを締めて背筋を正して読むぐらいの姿勢が必要。

みたいなことが書いてあった気がする。

でもこれよりも、印象に残ってるのが、

  • 本とは情報のツールでなく教養のツールである

  • 古典読むと、教養が身につくよ

  • 本に影響されて行動するのはみっともない

  • 古典読むと、人間の類型が判るよ。そうすると、人間関係、というか社会で見通しがつきやすくなるよ

  • 今どきの若者はマルクス資本論も読んだことないのか。私が学生の時は云々。

あくまで要約で、ぼくの誤解と偏見が大いに反映されているけど(最近よく思う。読んだ/聞いた内容を曲解してるな、自分って)、ぼくが読んだ、あるいは読み取った内容はこんな感じ。

そう、著者の出口さんが学生の頃は、ちょうど学生闘争が激しかった時のようで、よく大学の講義が休講になったりしたそうな。そうすると仕方ないから下宿先に戻って本を読んだとか。田舎から出てきて、都会の同輩たちが、マルクスとか読んでるのに焦りを感じて、猛烈に勉強したとか。

そういえば、池上彰さんの「学び続ける力」にも似たようなことが書いてあった。

学生闘争でよく休講になったので、図書館でたくさん本を読んだそうな。池上さんのほうは、岩波文庫を読破しようしていたとか(そしてショーペンハウアーの読書論に度肝を抜かれた(?)とか)

正直、うらやましいな、って思った。もちろん、うらやんでいる内は、どうしようもなく進歩しない人間でしかないんだけど。

本ってのは、やっぱり教養のツールなんだと思う。もっと言うなら、教養を鍛えるためのツール

昔、クローズアップ現代で、若者の読書離れだかなんだかとき、立花隆さんも、似たようなことを言っていたと思う。本は情報のツールじゃない。思考力を鍛えるツールなんだ、みたいなこと。

クロ現を見て、当時の自分は感動したのを覚えている。そういう見方もあるのかって。

で。出口さんの本でも、だいたいそんなことが書いてあったと思うので、本は教養/思考力を鍛えるツール、という見方は間違いではないように思われるのです。

そして、教養を身につけるには、古典を読むといいらしい。

そこから、ぼくの古典ブームが始まるのですが、それはまた別の話。

(光文社古典新訳文庫がものすごく好き。新訳だから)

あと、「初めに5ページだけ読んで、買うかどうか決める」という出口さんのマイルールを、ぼくも使てみています。

必ず書ける 「3つが基本」の 文章術 [近藤勝重/幻冬舎新書]

1月2週目

これも、地元で買った本。

あまりよくわからんなー、というのが正直な心証。

「あまり」なので、全くわからないわけじゃなかったけど。むしろ後述の「哲学入門」のほうが判らんかった。

言っていることは判らなくもないけど、その説明として用いられる文章がちょっとわかりづらかった。

なぜわかりにくかったのか、自分なりに考えてみると、

たぶん、ぼくが対象読者じゃなかったことが原因だと思う。

ぼくは、どちらかというと技術系の本を読むことが多いような気がする。だから、文学とかの基礎の基礎、文学の「ぶ」の字も知らないわけですよ。

いろいろと省略されてて、その間――たぶん、俗にいう「行間を読む」――ができなかったんだと思う。

ただ、これを読んで文章技巧をさらに強く意識するようになったと思う。

ここに書いてあること全部使う必要はないし、全部は使えんけど(著者とぼくは違う人間なので)、でもいくつかはものにしたい、と思ったことを記憶している。

で。

自分でも比喩が苦手だと思ってるし、文例として出てた村上春樹の文章読んで、まずは比喩を使えるようになろう、心象を直接的に書かず、別のものに仮託できるようになろう、て思った。

思った、ってことをいま思い出したけど。

超入門! 現代文学理論講座 [亀井秀雄(監修)蓼沼正美(著)/ちくまプリマ―新書]

1月3週目

これも、あまりよくわからなかった……。

高校生を対象にして書かれているから、読みやすいといえば読みやすい。けど、高校生はこんなところまで思い至らないだろう、と省略されている(と勝手にぼくが想像している)ところが、よくわからなかった気がする。

フォルマリズムは判った。むしろ、ちょっと惹かれた。たぶん、「はじめに」で書かれていた内容から直接つながるからわかったんだと思う。

今思えば、「はじめに」に結構引っ張られてた気がする。フォルマリズムと言語行為論・読書行為論のつながりがさっぱりわからない、というのが当時の漠然とした印象だった思う。今だから思うけど、この3つにつながりはないのですよ。この本自体が、「いくつかの」文学理論を、解りやすく紹介するための本なのだから。

いや、それでも、言語行為論や読書行為論は、やっぱりよくわからなかった気がする。

今思えば、石原千秋の何かしらの本で、フォルマリズム的なテクスト至上主義みたいなのを読んだんだった。

たぶんその影響で、フォルマリズムはそこそこ理解しやすかったのかも。

あと、物語論

「お話作るにはどうしたらいいんだろう」と思って一番初めに手に取った本が、大塚英志の「ストーリーメーカー(アスキー新書)」だったので、この文学理論を説明する本の物語論の章は、易しすぎて何も説明してないんじゃないか、って思えるぐらいだった(自慢)

思えば、「ストーリーメーカー」は、ほんとわからなくて、何度も何度も読んだ記憶がある。いまだに、理解している気がしない。

そう思うと、なんだか読み返したくなってきた。

話を戻して。

この文学理論を説明する本では、物語論を毛嫌いしているような印象を受けた。もちろんぼくの邪推でしかないけれども。

最終的には、物語論は映画とかアニメとか漫画とか、エンタメで使えるものであって、小説には関係ない。小説は小説で、小説を書く際の作者の発想自体が尊い。けれど、小説を読むときには、物語論を使うのは面白いかもね。

そんな感じにまとめられてた気がする。

あー、これがアナクロで暗鈍な文壇思想なのかー、とちょっと思った。作者に死を宣告するのが、この本の主題なんじゃない? と思ってたぼくとしては、ちょっと拍子抜けするところだった。結局、作者ありきかよって。

(と、揶揄しておいて、物語論を擁護しないのは、物語原理主義者(自称)としてどうなの? と思えなくもないけど。擁護できるだけの理論武装ができているわけでもなく。別に文壇がどうのこうのも関係ないし、ま、いいか)

哲学入門 [バートランド・ラッセル/ちくま学芸文庫]

1月4週目~2月1週目

基本、通勤中の読書は、1週間で一冊ぐらい、と思ってるから、2週間も使っちゃって焦った。

あれです。『本の「使い方」』を読んで、自分の中で古典ブームが起きたんです。

本に影響受けまくりで、もう、自分でもダメな奴だなーって思うのですが。

で、地元で買ってきた本も尽きたし、新しい本を買うか~、と新書を物色。

持論ですが。

古典は新訳で読むのが、いいと思うです。

というのも、個人的な経験なのですが、こんなことがありました。

オールタイムベストSFの上位にいつもランクインする、「夏への扉

これを読んだ時の話ですが、早川から出てるやつ読んでも、全く面白さが判らなかったんですよ。

その早川から出てるのは、数十年昔のものを、改訳することなく出版されていたわけで。

それから少しして、新書版の新訳「夏への扉」を読んだんです。

そしたら面白いこと面白いこと。

ものすごく感動したのを覚えています(特に、ダンが、マイルズとベルに一泡食わせてやるって自宅に乗り込んで、逆にゾンビドラックの餌食になってしまった時。あのピートさんに、心強く打たれました。ぼく基本的に、友情モノに弱いんです)

で、「幼年期の終わり」も読んだのは新訳版で、ものすごく面白くて興奮したのを覚えています。

「ライムギ畑でつかまえて」も、野崎訳ではなく、村上訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のほうが、格段に面白い。

なぜか。

村上春樹がインタビュー(たしか、講談社新書のなんかだったような……)でこんなようなことを言っていた気がする。

言葉は生ものだから、絶えず新しくしていかないといけない。

この意見には、経験的に同意できます。だって、「夏への扉」、新訳のほうが断然面白かったもの。

で、ここからぼくの意見ですが。

古典は難しい、みたいな印象があると思うんです。でもそれって、「古典が難しい」んじゃなくて、ただ「腐った言葉にあたった」だけなんじゃないかなって思う。

ぼく個人の願望としては、古典を新訳で読みたいわけです。

だから、光文社古典新訳文庫は、とっても大好き(になる予定)なのですが。

話がそれましたが、『哲学入門』に戻って。

そこで、本屋を物色していて目についたのが、バートランド・ラッセル『哲学入門』

ぼく、大学でちろっと数学をかじってましたが、ラッセルといえば数学の世界ではたびたび目にする人物でした。

(他にもラマヌジャンとか、オイラーとか、ヒルベルトとか、ガウスとか、ユークリッドとか、ワイルズとか、エルデシュとか)

ラッセルといえば、ラッセルのパラドクスが有名ですね。

村人の髪の毛を切る床屋のオヤジの髪は誰が切るんだい? 的な。集合の集合についての話。集合の集合の集合って何さ、みたいな。

ラッセル自信、数学の基礎論部分の人だとは認識してましたが、ましてや哲学までやっているとは。

その前に読んでいた、『本の「使い方」』の影響をもろ受けて、初めの5ページを読みました。

何とかわかる。いける!

そう思ってレジに持っていき、読み始めたわけです。

結果。

何言ってんのかわかんねー、でした。

この感覚、覚えがあります。

本を読み始めたころ、トレーニングだって言って「人間失格」を1ヶ月かけて読んだ時の感覚に似ています。

読んだはいいけど、何にもわかんなかったあの感覚に。

でも今では、人間失格を普通に読めます。読めるどころか、ものすごく面白いと思います。

だから、この哲学入門も、この先読書を続けていけば、いつかわかる日が来るのかな、って思います。

その時は、ものすごく興奮して、豊饒な世界が待っているのかと思うと、今から少し待ち遠しい。

 

 

総括

技術系の本を一冊も読んでなかったので、2月期は技術系の本を読んで行きたい。

あと、このエントリとして最後の言い訳。

ものすごく眠くて、頭からっぽで書いたエントリーだから、目的なく書いてるから、とても内容のないエントリになってる気がする。

全く読む人のことを考えてなくて、省略とかひどいと思う。

頑張って書けよ、って思わなくもないけど、ブログにまでそんな頑張る意味ある? と思わなくもない。

なぜなら、実はこれは3つ目のエントリだから。

2つ目の非公開になっているほうのエントリは、あーでもないこーでもないと悩んで、結局収集がつかなくなってしまったのです。

意味のある文章を書くのは大事だけど、エントリ埋めるために文章書いたっていいじゃない、と思わなくもない。