【艦これ二次創作】ジグソーパズル
お久しぶりです。
二次創作しました。
艦これ二次創作『ジグソーパズル』をアップしました。
読んでいただけらた、幸いです。
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7015512
総括
はてさて、前回エントリから160日ぐらいたっててびっくりしています。
この間に、納期があったり納期があったりと、残業三昧という贅沢な日々を送ってきました。
今回は、反省とか、なんとか、いろいろな意味を込めて、今回の創作について総括してみたいと思います。
ちなみに「総括」というと、大学闘争、内ゲバ、日本赤軍なんかを連想してしまって、ちょっと物騒な言葉だなって思います。
「いなくなれ、群青」を読んだんだ。
その結果、好きな作家のひとりに、河野裕先生が加わりました。現状、一番好きな作家です。
好きな作家、というにも言いたいことがあるのですが、またの機会に。
で。
「いなくなれ、群青」を読んで、河野先生にドはまりして、「汚れた赤を、恋と呼ぶんだ」まで読んだ勢いそのままに「サクラダリセット」も全巻読んでしまいました。
「ベイビー、グッドモーニング」も面白かったし、今読んでる、「つれづれ、北野坂探偵舎」シリーズも面白いです。
読み終わったら、とりあえず積んでるSariSariの短編を読むんだ……。ホールデンとかね、もうね……。
はっ!? じゃ、なくて。
まあ、何が言いたいかというと、今回書いた物語は、人の書いたものに引っ張られてるなー、という話。
もちろん、意識してマネできているならいいと思うのです。上達の第一歩は模倣だといいますし。
前半部分は、意識してマネできていたと思う。
読者の共感を促そうと、結構比喩を多用したと思う。
それがうまくいっているのかどうかわからないけど。
思えば、村上春樹の比喩力は、ぜひとも見習いたいと常々思ってたし、その第一歩を踏み出せたんだと思う。
ただ後半。
力尽きて(理由は後述)、会話と動作を書くことに始終してしまってたと思う。
それじゃいけなくて、最後まで、意図の糸、こういう物語を書くんだ、という意図を貫くように書けるようになりたいな。
プロットって大事だよね
先述に、前半で力尽きたって書いたけど、その理由としては、プロットの不完全さだと思う。
毎回そうなんだけど、今回も書こうとする意識のほうが強くて、ちゃんとしたプロットを作れなかった。
プロットなしで作れるのは、ショートショート程度が限度だと思った。
「プロットってそんなに大事かよ?」「本物の作家は、頭の中に物語を持ってるもんだぜ。そいつを言葉にしているだけで、お話が書けるんだ」
そんな意見もあると思う。ぶっちゃけ、ぼくもそう思ってた時期がありました、はい。
プロット、というのは、物語/お話/ストーリの「設計図」という意味合いが強いと思う。
プロフェッショナルは、プロットを頭の中で完結させられる、ってのが作家/小説家に抱く一般的なイメージではないだろうか。
確かに、プロットは設計図だと思う。けどそれは、どちらかというとソフトウェア開発現場で言う、要求定義書とか外部設計書とか内部設計書といったものの類だと思うの。
つまり、完璧なプロットなんて存在しないし、存在できない。いつでも(執筆中とか)手戻りが発生する「設計図」なんだと思う。
それでも、手戻りが発生するとしてもプロットに意味があるとするならば、それは自分が何を書こうとしているのかを明確にする「作業」なんだと思う。
ぼんやりと頭の中に思い浮かべているものは、そのままじゃ外に出力しても碌なものにならない。
だから、もうちょっと頭の中の靄をはっきりとさせるために、プロット、ひいてはプロットを「作る」という作業があるんだと思う。
プロフェッショナルは、その作業を完全に脳内で完結させられるから、プロフェッショナルなんだと思う。
ぼくみたいな、同人作家未満、アマチュア未満、下手の横好き人間には、プロットを作って、自分の頭の中にある靄を、クリアなものにしなければ、お話なんて書けないんだと思う。
つまり、というか、プロットというのは、プロットそのものが大事なんじゃなくて、プロットを作る作業、要は自分自身との対話が大事なんだと。
今回は(そして毎回のことだけど)それが足りなかったのだと思う。
次は、もうちょっと、まともにプロットを作って挑みたい。
キャラクターを増やそう
これは切実に思った。
そして、ちょっとでも長いお話を書こうとするたびに、いつもぶち当たる壁。
何かというと、一人のキャラクターに絞ってお話を進めるのは、究極的に難しい。というか、不可能。
書きあがったとしても、それは面白さゼロの、ただの落書きでしかないと思う。
なぜかというと、「人間」という言葉が答えを示しているように思う。
つまりは、人と人との関係、繋がり。そういったものが、必要なんだと思う。
なんというか、うまく言葉にできる自信がないんだけど、一人のキャラクターを一つの視点(つまりそのキャラクターの視点)から描いても、深みとか広がりは全くでないんですよ。
それが、いろいろなキャラクターを交歓させたり喧嘩させたり議論させたりすることで、深みとか広がりが出るのだと思う。
もしくは、キャラクターの掛け合いが、すなわちお話の原動力なのかもしれない。
一人しかキャラクターのいないお話は、エンジンのない自動車と同じで、いつまでも結末を迎えられないんじゃなかろうか。
それに、フランス(だったかイタリアだったか。よく覚えてない)での小説の区分けも、登場人物の数で分けるというのがある。
日本だと、単純に原稿量で、掌編、短編、中編、長編、なんて分けるけど、この海外の区分け方だと、例えば、登場人物が二人が掌編、三人が短編……みたいな分け方としてたと思う。
実際に書いてみると、これって理に適っていると思う。
お話を長くしようとすれば、どうしても登場人物を増やすしかないもの。
と、そこまで言っておきながら、いつも登場人物を増やせないぼく。
今度、短編以上の長さのものを書くことがあったら、登場人物数には注意を払いたいと思う。
語りえぬことを語る
今回の一番の収穫。
ヴィトゲンシュタインは言ったそうです。「語りえぬことの前には、沈黙するほかにない」
語りえぬこととは何か、ということは「サクラダリセット」を読んでもらうとして。
例えば、コミュニケーション。
ぼく達が普段、他者と意思疎通を図るために用いる言葉。
この言葉には、たぶん二つの面があって、一つは事実を伝える言葉と、もう一つは感情を伝える言葉。
事実を伝える言葉は、例えば青空の下で「きょうは晴れてますね」ということとか、「1+1=2」ということ。
誰が見ても、誤解なく相互理解が得られる(得られそうな)言葉のこと。
そして、感情を伝える言葉。これは、事実を伝える言葉とは真逆で、誤解ない相互理解は不可能な言葉、とでもいうものだと思うの。
例えば、ある人Aさんの「悲しみ」はBさんには決して伝えることはできない。Aさんは大好きだった犬ポチが死んでしまって悲しんでいる。生まれたときからずっとそばにいて、まるで家族のようだったその犬は、ある寒い雪の朝、犬小屋で丸々ように死んでいた。ところがBさんは、まだ年端もいかない頃、近所の犬に追い回されて、かまれて痛い思いをした記憶がある。そしてAさんとBさんは、この四月から高校に入学して、初めて同じクラスになった仲だとして。Aさんが「飼い犬が死んで悲しいの」といっても、犬が大嫌いなBさんにはその悲しみは伝わらない。0じゃないとしても、Aさんが抱く悲しみの全量/全質(つまりはAさんにとっての真の悲しみ)は、Bさんには伝わらない。
と、まあ、この「感情を伝える言葉」自体が、「感情を伝えない言葉」を体現しているようですけどね。
説明するだけでこんなに言葉を費やさなくてはならないし、ここまで書いても、読む人に100%伝わることもないんですけど。
ちょっと余談だけど、世の中自分のいうことは絶対に正しい、みたいなことを無意識下で信じて疑わない人が多数いますが、それはたぶん、言葉が絶対的だと信じて疑わないからじゃないかなーって思います。
「「言葉」は絶対的な意思伝達を行うものだ、だから私の「言葉」は誤解なく相手に通じているはずだ、どうして相手はそれを理解できないのか、相手は自分ほど頭がよくないのだ」
こんな論理が聞こえてきそうです。
たぶん、そういう人はこの世界は全部数式でできてるって信じて疑わない人なんでしょうね。ぼくとしては、この世界のほんの一部が数式でできてる、と思ってるたちなので。
話を戻して。
ちょっと(かなり?)理解は違うけど、この誤解が不可避なコミュニケーションを、ヴィトゲンシュタインは「言語ゲーム」といったんだと思う。違ったらごめん。
で。
前置きが長くなっちゃったけど。
今回、大井さんの「好き」という感情を、言葉そのもので表現しようとしてしまった。
なんども大井さんに「北上さんが好きだ」と言ってもらうんだけど、どうも質量がない。直接北上さんの好きなところをリストにしてみるけど、まだダメ。どれほど好きかを滔滔と語ってもらったけど(完成稿では丸々省いた)、それでも全く質量がない。
なんでだろうかともやもやしていて、ふと思い至ったのが、ヴィトゲンシュタインの「語りえぬこと」。
恥ずかしいことに、ここまで、この大井さんの「好き」ということが、語りえぬことに属するとは露にも思っておらず。
このことに気付いた時は、結構自分の中で天啓だって思いました。仕事中だったけど。まあ、その話はおいておいて。
だから、世の中の文芸の困難さの一端は、ここにあるんだと理解しました。
つまり、文芸では、語りえぬことを、それでも語らなければいけない。語りえぬことを、どうにか語ろうとする。この矛盾する営みが、文芸であり、芸術なのだと理解しました。
今後の課題として、語りえぬこととはどういうことか、の判例をいっぱい身に着けたいですし、語りえぬことを語る手段も、それ以上にたくさん身に着けていきたいと思いました。
最後に
まあ、長々と書いてきましたが(そして、反省文を書いてどうするんだ、と若干思いますが)
そんな中で書いた「ジグソーパズル」。
ちょっとでも読んでもらえたらうれしい限りです。