三河屋さんのメモ帳

三河豊田が好きなことを探すブログ。

【雑記】最近のアニメCMについて思うこと

結論:新海誠かよ。

この文章について:アニメCMのまとめを見た際の感想を、ダイレクトに書いてるので、論理構造とかめちゃくちゃ。メモ書き。

最近めっきりTVを観ない人になってしまいました。

それでも細々と入ってくる情報の中で、ダンロップのアニメPVがあるのを知って、見てみたわけです。

MiniMiniがアニメCMやっててすごい時代になったと思ったら、日清しかり、大成建設しかり、ダンロップしかりと、アニメ系のプロモーションムービーが増えたな、と。

で。

どれもこれも、青春ものだと思いまして。

んでもって、どれもこれも新海誠ライクなアニメだなぁと思いまして。

どこがどう、新海誠っぽいのか、説明はできません。けれども、「君の名は。」の大成功が記憶に新しい現在、これらのアニメPVを見ると、どれも背景がすごくきれいで、「あはは、まるで新海誠だね」と思っちゃうわけです。

なんじゃそりゃ。

ほかにも驚いたことがいくつか。

ひとつは、物語が何もないこと。

PVってのは、30分も1時間もあるものではありません。プロモーションビデオなわけですから、短い時間でいかに消費者に情報を届けるかが勝負なわけです。

だからPVの性格上、ストーリーテリングというか、物語一つを、短い時間に収めるのは不可能なわけで。それでも、断片的な映像のつなぎ合わせでしかないこれらのPVの中に、確かに「物語」が見える気がするのです。

たぶんそれは、現代社会というか文明というか、大量に物語を消費した結果として、何となくの「パターン」があって、それを消費者は脳内で、無自覚に、無意識に、変換して、楽しんでいるのではと。

何を言ってるのか自分でもわからんけど、「動物化するポストモダン」にある「DB消費」というのが、キャラクターだけでなく、物語にも適用されるようになったのかと思うと、とても脅威を感じるわけです。

昨今のWEB小説しかし、きちんとした骨太な物語よりも、DBとして消費可能な物語が市場を席巻しているように思います。

そうすると、「緻密な世界観よりも、借り物の世界観」、「骨太なストーリーよりも、どこかで見た物語の要素の羅列」、「巧緻な作品よりも、拙速な作品」が嗜好される世の中になっていくのでは、と危惧せずにはいられないわけです。

まあ、読む側からするとWeb小説とか面白いんだけど、書く側からすると、毎日更新するとかね、すごく大変だと思う。少なくともぼくはできない。

注:これは論説というよりも、感想文、もっと言えばメモ書きなので、すごく突っ込みどころだらけだと思いますが、スルーしていただけると幸いです。

そしてもう一つ。

なんというか。セカイ系だよな、と。

むしろセカイ系の再来かと。

どこがどうセカイ系か、これもただの感想文なので説明しませんが、ただ、ダンロップのPVのキャラ原案が高橋しんとかね。どうにも見たことある絵柄だと思ったら、最終兵器彼女ですか。

最近ネット記事だかブログで、「君の名は。」が流行ってから、セカイ系ラノベを再評価する~だか再紹介する~だかを読みまして。

確かに、なんとなくの感情として、セカイ系っぽくあるなと。

もちろん、日清の隕石落ちてくるCM以外は、どこがセカイ系なのか判然としませんが。

もしかしたら、「世界の危機を前にして、世界よりも二人の恋にしかフォーカスしない、世界の危機を背景ノイズにしてしまう作品群」がセカイ系だとしたら(少なくとも、ぼくはそういう理解)、これらのアニメPVは、「物語を背景ノイズとして、物語よりも二人の恋にしかフォーカスしない」という構造が、セカイ系っぽく感じさせているのかもしれない。

ハイジとか魔女宅とか、「ハイジらしさ」や「魔女宅らしさ」(なんだよそれ)よりも、「ハイジとペーターの恋模様」「キキとトンボの恋模様」にフォーカスして、その「らしさ」を捨て去ってる部分が、セカイ系っぽく感じてる所以かもしれない。

何言ってんだろうね。

まあ、そんな感じで。

【雑記】才能について

さっきお風呂に入ってて、ふと思いついたことをメモ程度に残しておこうと思う。

才能について

「才能」って言葉があると思う。英語で言うとGifted。神様から与えられた資質とか素質とか、まあ、そんな感じ。

試しに辞書を引いてみる。

物事を巧みになしうる生まれつきの能力。才知の働き。

(goo辞書)

また、「才能」で検索すると、まーいろいろと出てくること出てくること。

みなさん、才能について、あれこれ思いめぐらせているのですね。才能って何だろう。自分には才能があるのだろうか。とかとか。

かく言う僕も、やっぱり才能って言葉が気になっちゃうわけで。

自分には文筆の才能なんてミジンコ一匹たりとも持ち合わせていないんじゃないか。いやまあ、持ち合わせてはいないのは確かだから、努力でカバーしないと。いや、そもそも努力って何? 自分って努力してるの? 努力をしたと主張する人たちの中で成功した人と失敗した人で何が違うの? そもそも、客観的に計量可能な努力って定義できるの? エトセトラエトセトラ。

益体もないことを、脱線したことを、ふと考えたりしてしまうわけです。

そこで、シャワーを浴びてて、ふと思ったのは、

才能とは、情熱である。

みたいなこと。

才能ってのは、たぶん、頭の中にある物語とか音楽とかイメージを、どうしても形にして残したいっていう情熱なんだと思う。

普通は、頭の中に、ふと自然と物語とか音楽とかイメージを思い浮かべるのが才能だっていう風に考えるんだと思う。

けど、そんなの訓練次第でどうにでもなるものじゃなかろうか。

頭の中で音が鳴っている、頭の中で物語が進行してく、頭の中でイメージが出来上がる。

訓練次第で、こういうもの(仮に、インナーオブジェクトと呼ぼう)は後天的に身に着けられるものだと思う。

すると、才能ってのは、これら頭の中にあるものを、形あるものとして残したいと思う情熱であり、形づける際に投げ出さずに最後までやり通す情熱だと思う。

インターネット環境下とか現代の回転の速い-循環の速い社会で暮らしていると、世の中に出回っているレディーメイドな作品群は、ぱっと生み出されてぱっと消費されてる感覚がすると思う。

それに、この「ぱっと生み出せる」が才能と同義に見られているんだと思う。

けど、ちょっとでも創作に手を出したことがある人はわかると思うけど、なにか一つのモノを形づけようとするってのは、とても大変なことですよね。

まさに産みの苦しみ(ちょっと違うか?)というやつで。この創作と消費の関係に思わず創作の非対称性とでも名付けたくなるほど、何かを作ろうってのは、とても大変なことなのです。

で。

こういった大変を苦にもせず楽しんだり、また大変だと分かっていてその大変を引き受けることってのは、どちらも情熱がなければできないものだと思う。

だって、頭の中で音が鳴ってたって、物語が進行していたって、イメージが思い描けたって、大変だとしか思えなければ形にして残そうと思わないじゃん。

頭の中の音、物語、イメージを、形に残すのはとても大変だけど、それでも形に残したい、って思うのは、すなわち情熱であり、そうやって形作られたものが評価され、才能と言われるのじゃないだろうか?

また、頭の中のこういったインナーオブジェクトを、形に残したいって思うのは、それが「面白い」からじゃないだろうかとも思う。

だって、人って、面白い物語に触れたとき、感動する音楽を聞いた時って、人にその感動を伝えたいって思わない?

インナーオブジェクトを形に残したい、ってのは、詰まるところ、この面白さを他人に伝えたいってことなんだと思う。

だから、インナーオブジェクトを形作られたものは、評価されるのかもって思う。

もちろん、この「面白い」が独りよがりだったら、いくら形にしたって、他人から評価されないし、才能があるってことにもならないと思う。

けどそれって、その人の独りよがり具合によるんじゃないだろうか。詰まるところ、その人が、どれだけ多様な人たちと交感し、自身のうちに多様性を持ってるか、

ありていに言えば、どれだけコミュニケーション上手かっていうことにかかわると思う。

多様性を内に秘めているから、面白さの基準が一般的、というか、自分が面白いと思うことが多くの人も面白いと思うことと一致しやすいんだと思う。

コミュニケーション能力が高い人のインナーオブジェクトが形作られたとき、それは評価に値する作品になるんじゃないかと思う。

余談だけど、「芸術家ってのは仙人みたいに人と全く交わらずに独自の道を突き進む変人」ってのはかなりステレオタイプな見方だと思う。本当に評価される人は、普通の人の「普通性」みたいなものをちゃんと持っているから、多くの人(=普通の人)に評価されるだと思う。

と、まあ、メモ程度に一気に書き出してみたけど、つまるところ、才能ってのは情熱なんだなって思う次第でした。

【艦これ二次創作】ジグソーパズル

お久しぶりです。

二次創作しました。

艦これ二次創作『ジグソーパズル』をアップしました。

読んでいただけらた、幸いです。

「ジグソーパズル」/「三河豊田」の小説 [pixiv]

http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7015512

総括

はてさて、前回エントリから160日ぐらいたっててびっくりしています。

この間に、納期があったり納期があったりと、残業三昧という贅沢な日々を送ってきました。

今回は、反省とか、なんとか、いろいろな意味を込めて、今回の創作について総括してみたいと思います。

ちなみに「総括」というと、大学闘争、内ゲバ日本赤軍なんかを連想してしまって、ちょっと物騒な言葉だなって思います。

「いなくなれ、群青」を読んだんだ。

その結果、好きな作家のひとりに、河野裕先生が加わりました。現状、一番好きな作家です。

好きな作家、というにも言いたいことがあるのですが、またの機会に。

で。

「いなくなれ、群青」を読んで、河野先生にドはまりして、「汚れた赤を、恋と呼ぶんだ」まで読んだ勢いそのままに「サクラダリセット」も全巻読んでしまいました。

「ベイビー、グッドモーニング」も面白かったし、今読んでる、「つれづれ、北野坂探偵舎」シリーズも面白いです。

読み終わったら、とりあえず積んでるSariSariの短編を読むんだ……。ホールデンとかね、もうね……。

はっ!? じゃ、なくて。

まあ、何が言いたいかというと、今回書いた物語は、人の書いたものに引っ張られてるなー、という話。

もちろん、意識してマネできているならいいと思うのです。上達の第一歩は模倣だといいますし。

前半部分は、意識してマネできていたと思う。

読者の共感を促そうと、結構比喩を多用したと思う。

それがうまくいっているのかどうかわからないけど。

思えば、村上春樹の比喩力は、ぜひとも見習いたいと常々思ってたし、その第一歩を踏み出せたんだと思う。

ただ後半。

力尽きて(理由は後述)、会話と動作を書くことに始終してしまってたと思う。

それじゃいけなくて、最後まで、意図の糸、こういう物語を書くんだ、という意図を貫くように書けるようになりたいな。

プロットって大事だよね

先述に、前半で力尽きたって書いたけど、その理由としては、プロットの不完全さだと思う。

毎回そうなんだけど、今回も書こうとする意識のほうが強くて、ちゃんとしたプロットを作れなかった。

プロットなしで作れるのは、ショートショート程度が限度だと思った。

「プロットってそんなに大事かよ?」「本物の作家は、頭の中に物語を持ってるもんだぜ。そいつを言葉にしているだけで、お話が書けるんだ」

そんな意見もあると思う。ぶっちゃけ、ぼくもそう思ってた時期がありました、はい。

プロット、というのは、物語/お話/ストーリの「設計図」という意味合いが強いと思う。

プロフェッショナルは、プロットを頭の中で完結させられる、ってのが作家/小説家に抱く一般的なイメージではないだろうか。

確かに、プロットは設計図だと思う。けどそれは、どちらかというとソフトウェア開発現場で言う、要求定義書とか外部設計書とか内部設計書といったものの類だと思うの。

つまり、完璧なプロットなんて存在しないし、存在できない。いつでも(執筆中とか)手戻りが発生する「設計図」なんだと思う。

それでも、手戻りが発生するとしてもプロットに意味があるとするならば、それは自分が何を書こうとしているのかを明確にする「作業」なんだと思う。

ぼんやりと頭の中に思い浮かべているものは、そのままじゃ外に出力しても碌なものにならない。

だから、もうちょっと頭の中の靄をはっきりとさせるために、プロット、ひいてはプロットを「作る」という作業があるんだと思う。

プロフェッショナルは、その作業を完全に脳内で完結させられるから、プロフェッショナルなんだと思う。

ぼくみたいな、同人作家未満、アマチュア未満、下手の横好き人間には、プロットを作って、自分の頭の中にある靄を、クリアなものにしなければ、お話なんて書けないんだと思う。

つまり、というか、プロットというのは、プロットそのものが大事なんじゃなくて、プロットを作る作業、要は自分自身との対話が大事なんだと。

今回は(そして毎回のことだけど)それが足りなかったのだと思う。

次は、もうちょっと、まともにプロットを作って挑みたい。

キャラクターを増やそう

これは切実に思った。

そして、ちょっとでも長いお話を書こうとするたびに、いつもぶち当たる壁。

何かというと、一人のキャラクターに絞ってお話を進めるのは、究極的に難しい。というか、不可能。

書きあがったとしても、それは面白さゼロの、ただの落書きでしかないと思う。

なぜかというと、「人間」という言葉が答えを示しているように思う。

つまりは、人と人との関係、繋がり。そういったものが、必要なんだと思う。

なんというか、うまく言葉にできる自信がないんだけど、一人のキャラクターを一つの視点(つまりそのキャラクターの視点)から描いても、深みとか広がりは全くでないんですよ。

それが、いろいろなキャラクターを交歓させたり喧嘩させたり議論させたりすることで、深みとか広がりが出るのだと思う。

もしくは、キャラクターの掛け合いが、すなわちお話の原動力なのかもしれない。

一人しかキャラクターのいないお話は、エンジンのない自動車と同じで、いつまでも結末を迎えられないんじゃなかろうか。

それに、フランス(だったかイタリアだったか。よく覚えてない)での小説の区分けも、登場人物の数で分けるというのがある。

日本だと、単純に原稿量で、掌編、短編、中編、長編、なんて分けるけど、この海外の区分け方だと、例えば、登場人物が二人が掌編、三人が短編……みたいな分け方としてたと思う。

実際に書いてみると、これって理に適っていると思う。

お話を長くしようとすれば、どうしても登場人物を増やすしかないもの。

と、そこまで言っておきながら、いつも登場人物を増やせないぼく。

今度、短編以上の長さのものを書くことがあったら、登場人物数には注意を払いたいと思う。

語りえぬことを語る

今回の一番の収穫。

ヴィトゲンシュタインは言ったそうです。「語りえぬことの前には、沈黙するほかにない」

語りえぬこととは何か、ということは「サクラダリセット」を読んでもらうとして。

例えば、コミュニケーション。

ぼく達が普段、他者と意思疎通を図るために用いる言葉。

この言葉には、たぶん二つの面があって、一つは事実を伝える言葉と、もう一つは感情を伝える言葉。

事実を伝える言葉は、例えば青空の下で「きょうは晴れてますね」ということとか、「1+1=2」ということ。

誰が見ても、誤解なく相互理解が得られる(得られそうな)言葉のこと。

そして、感情を伝える言葉。これは、事実を伝える言葉とは真逆で、誤解ない相互理解は不可能な言葉、とでもいうものだと思うの。

例えば、ある人Aさんの「悲しみ」はBさんには決して伝えることはできない。Aさんは大好きだった犬ポチが死んでしまって悲しんでいる。生まれたときからずっとそばにいて、まるで家族のようだったその犬は、ある寒い雪の朝、犬小屋で丸々ように死んでいた。ところがBさんは、まだ年端もいかない頃、近所の犬に追い回されて、かまれて痛い思いをした記憶がある。そしてAさんとBさんは、この四月から高校に入学して、初めて同じクラスになった仲だとして。Aさんが「飼い犬が死んで悲しいの」といっても、犬が大嫌いなBさんにはその悲しみは伝わらない。0じゃないとしても、Aさんが抱く悲しみの全量/全質(つまりはAさんにとっての真の悲しみ)は、Bさんには伝わらない。

と、まあ、この「感情を伝える言葉」自体が、「感情を伝えない言葉」を体現しているようですけどね。

説明するだけでこんなに言葉を費やさなくてはならないし、ここまで書いても、読む人に100%伝わることもないんですけど。

ちょっと余談だけど、世の中自分のいうことは絶対に正しい、みたいなことを無意識下で信じて疑わない人が多数いますが、それはたぶん、言葉が絶対的だと信じて疑わないからじゃないかなーって思います。

「「言葉」は絶対的な意思伝達を行うものだ、だから私の「言葉」は誤解なく相手に通じているはずだ、どうして相手はそれを理解できないのか、相手は自分ほど頭がよくないのだ」

こんな論理が聞こえてきそうです。

たぶん、そういう人はこの世界は全部数式でできてるって信じて疑わない人なんでしょうね。ぼくとしては、この世界のほんの一部が数式でできてる、と思ってるたちなので。

話を戻して。

ちょっと(かなり?)理解は違うけど、この誤解が不可避なコミュニケーションを、ヴィトゲンシュタインは「言語ゲーム」といったんだと思う。違ったらごめん。

で。

前置きが長くなっちゃったけど。

今回、大井さんの「好き」という感情を、言葉そのもので表現しようとしてしまった。

なんども大井さんに「北上さんが好きだ」と言ってもらうんだけど、どうも質量がない。直接北上さんの好きなところをリストにしてみるけど、まだダメ。どれほど好きかを滔滔と語ってもらったけど(完成稿では丸々省いた)、それでも全く質量がない。

なんでだろうかともやもやしていて、ふと思い至ったのが、ヴィトゲンシュタインの「語りえぬこと」。

恥ずかしいことに、ここまで、この大井さんの「好き」ということが、語りえぬことに属するとは露にも思っておらず。

このことに気付いた時は、結構自分の中で天啓だって思いました。仕事中だったけど。まあ、その話はおいておいて。

だから、世の中の文芸の困難さの一端は、ここにあるんだと理解しました。

つまり、文芸では、語りえぬことを、それでも語らなければいけない。語りえぬことを、どうにか語ろうとする。この矛盾する営みが、文芸であり、芸術なのだと理解しました。

今後の課題として、語りえぬこととはどういうことか、の判例をいっぱい身に着けたいですし、語りえぬことを語る手段も、それ以上にたくさん身に着けていきたいと思いました。

最後に

まあ、長々と書いてきましたが(そして、反省文を書いてどうするんだ、と若干思いますが)

そんな中で書いた「ジグソーパズル」。

ちょっとでも読んでもらえたらうれしい限りです。

【雑記】読書記録(16年1月期)

今回は読書記録。

毎日通勤の時間は読書学習(?)の時間にあてています。

そんで。

今年は40冊の本を読むことを目標にしているので、その記録がてら、ブログのネタにしようというのが今回のエントリーです。

ちなみに読む本は、小説/ラノベ/雑誌以外。

40冊の内20冊は技術系の本、という縛りを科しています。

縛りプレイです(笑)

ちなみに、今回のエントリーは、うろ覚えで書いているので、間違いがたくさんあることが想像されます。

ので、話半分ぐらいに読んでいただければ、って思います。

本の「使い方」 一万冊を血肉にした方法 [出口治明/角川新書]

1月1週目(5日~)

実家に帰省した時、新年から読む本がねぇ! って地元の本屋さんをたくさん(?)めぐって出会った一冊。

とても面白かったです。

本っつーのは、著者との一対一の対話であり、寝転がって読んだりするのは間違っている。ネクタイを締めて背筋を正して読むぐらいの姿勢が必要。

みたいなことが書いてあった気がする。

でもこれよりも、印象に残ってるのが、

  • 本とは情報のツールでなく教養のツールである

  • 古典読むと、教養が身につくよ

  • 本に影響されて行動するのはみっともない

  • 古典読むと、人間の類型が判るよ。そうすると、人間関係、というか社会で見通しがつきやすくなるよ

  • 今どきの若者はマルクス資本論も読んだことないのか。私が学生の時は云々。

あくまで要約で、ぼくの誤解と偏見が大いに反映されているけど(最近よく思う。読んだ/聞いた内容を曲解してるな、自分って)、ぼくが読んだ、あるいは読み取った内容はこんな感じ。

そう、著者の出口さんが学生の頃は、ちょうど学生闘争が激しかった時のようで、よく大学の講義が休講になったりしたそうな。そうすると仕方ないから下宿先に戻って本を読んだとか。田舎から出てきて、都会の同輩たちが、マルクスとか読んでるのに焦りを感じて、猛烈に勉強したとか。

そういえば、池上彰さんの「学び続ける力」にも似たようなことが書いてあった。

学生闘争でよく休講になったので、図書館でたくさん本を読んだそうな。池上さんのほうは、岩波文庫を読破しようしていたとか(そしてショーペンハウアーの読書論に度肝を抜かれた(?)とか)

正直、うらやましいな、って思った。もちろん、うらやんでいる内は、どうしようもなく進歩しない人間でしかないんだけど。

本ってのは、やっぱり教養のツールなんだと思う。もっと言うなら、教養を鍛えるためのツール

昔、クローズアップ現代で、若者の読書離れだかなんだかとき、立花隆さんも、似たようなことを言っていたと思う。本は情報のツールじゃない。思考力を鍛えるツールなんだ、みたいなこと。

クロ現を見て、当時の自分は感動したのを覚えている。そういう見方もあるのかって。

で。出口さんの本でも、だいたいそんなことが書いてあったと思うので、本は教養/思考力を鍛えるツール、という見方は間違いではないように思われるのです。

そして、教養を身につけるには、古典を読むといいらしい。

そこから、ぼくの古典ブームが始まるのですが、それはまた別の話。

(光文社古典新訳文庫がものすごく好き。新訳だから)

あと、「初めに5ページだけ読んで、買うかどうか決める」という出口さんのマイルールを、ぼくも使てみています。

必ず書ける 「3つが基本」の 文章術 [近藤勝重/幻冬舎新書]

1月2週目

これも、地元で買った本。

あまりよくわからんなー、というのが正直な心証。

「あまり」なので、全くわからないわけじゃなかったけど。むしろ後述の「哲学入門」のほうが判らんかった。

言っていることは判らなくもないけど、その説明として用いられる文章がちょっとわかりづらかった。

なぜわかりにくかったのか、自分なりに考えてみると、

たぶん、ぼくが対象読者じゃなかったことが原因だと思う。

ぼくは、どちらかというと技術系の本を読むことが多いような気がする。だから、文学とかの基礎の基礎、文学の「ぶ」の字も知らないわけですよ。

いろいろと省略されてて、その間――たぶん、俗にいう「行間を読む」――ができなかったんだと思う。

ただ、これを読んで文章技巧をさらに強く意識するようになったと思う。

ここに書いてあること全部使う必要はないし、全部は使えんけど(著者とぼくは違う人間なので)、でもいくつかはものにしたい、と思ったことを記憶している。

で。

自分でも比喩が苦手だと思ってるし、文例として出てた村上春樹の文章読んで、まずは比喩を使えるようになろう、心象を直接的に書かず、別のものに仮託できるようになろう、て思った。

思った、ってことをいま思い出したけど。

超入門! 現代文学理論講座 [亀井秀雄(監修)蓼沼正美(著)/ちくまプリマ―新書]

1月3週目

これも、あまりよくわからなかった……。

高校生を対象にして書かれているから、読みやすいといえば読みやすい。けど、高校生はこんなところまで思い至らないだろう、と省略されている(と勝手にぼくが想像している)ところが、よくわからなかった気がする。

フォルマリズムは判った。むしろ、ちょっと惹かれた。たぶん、「はじめに」で書かれていた内容から直接つながるからわかったんだと思う。

今思えば、「はじめに」に結構引っ張られてた気がする。フォルマリズムと言語行為論・読書行為論のつながりがさっぱりわからない、というのが当時の漠然とした印象だった思う。今だから思うけど、この3つにつながりはないのですよ。この本自体が、「いくつかの」文学理論を、解りやすく紹介するための本なのだから。

いや、それでも、言語行為論や読書行為論は、やっぱりよくわからなかった気がする。

今思えば、石原千秋の何かしらの本で、フォルマリズム的なテクスト至上主義みたいなのを読んだんだった。

たぶんその影響で、フォルマリズムはそこそこ理解しやすかったのかも。

あと、物語論

「お話作るにはどうしたらいいんだろう」と思って一番初めに手に取った本が、大塚英志の「ストーリーメーカー(アスキー新書)」だったので、この文学理論を説明する本の物語論の章は、易しすぎて何も説明してないんじゃないか、って思えるぐらいだった(自慢)

思えば、「ストーリーメーカー」は、ほんとわからなくて、何度も何度も読んだ記憶がある。いまだに、理解している気がしない。

そう思うと、なんだか読み返したくなってきた。

話を戻して。

この文学理論を説明する本では、物語論を毛嫌いしているような印象を受けた。もちろんぼくの邪推でしかないけれども。

最終的には、物語論は映画とかアニメとか漫画とか、エンタメで使えるものであって、小説には関係ない。小説は小説で、小説を書く際の作者の発想自体が尊い。けれど、小説を読むときには、物語論を使うのは面白いかもね。

そんな感じにまとめられてた気がする。

あー、これがアナクロで暗鈍な文壇思想なのかー、とちょっと思った。作者に死を宣告するのが、この本の主題なんじゃない? と思ってたぼくとしては、ちょっと拍子抜けするところだった。結局、作者ありきかよって。

(と、揶揄しておいて、物語論を擁護しないのは、物語原理主義者(自称)としてどうなの? と思えなくもないけど。擁護できるだけの理論武装ができているわけでもなく。別に文壇がどうのこうのも関係ないし、ま、いいか)

哲学入門 [バートランド・ラッセル/ちくま学芸文庫]

1月4週目~2月1週目

基本、通勤中の読書は、1週間で一冊ぐらい、と思ってるから、2週間も使っちゃって焦った。

あれです。『本の「使い方」』を読んで、自分の中で古典ブームが起きたんです。

本に影響受けまくりで、もう、自分でもダメな奴だなーって思うのですが。

で、地元で買ってきた本も尽きたし、新しい本を買うか~、と新書を物色。

持論ですが。

古典は新訳で読むのが、いいと思うです。

というのも、個人的な経験なのですが、こんなことがありました。

オールタイムベストSFの上位にいつもランクインする、「夏への扉

これを読んだ時の話ですが、早川から出てるやつ読んでも、全く面白さが判らなかったんですよ。

その早川から出てるのは、数十年昔のものを、改訳することなく出版されていたわけで。

それから少しして、新書版の新訳「夏への扉」を読んだんです。

そしたら面白いこと面白いこと。

ものすごく感動したのを覚えています(特に、ダンが、マイルズとベルに一泡食わせてやるって自宅に乗り込んで、逆にゾンビドラックの餌食になってしまった時。あのピートさんに、心強く打たれました。ぼく基本的に、友情モノに弱いんです)

で、「幼年期の終わり」も読んだのは新訳版で、ものすごく面白くて興奮したのを覚えています。

「ライムギ畑でつかまえて」も、野崎訳ではなく、村上訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のほうが、格段に面白い。

なぜか。

村上春樹がインタビュー(たしか、講談社新書のなんかだったような……)でこんなようなことを言っていた気がする。

言葉は生ものだから、絶えず新しくしていかないといけない。

この意見には、経験的に同意できます。だって、「夏への扉」、新訳のほうが断然面白かったもの。

で、ここからぼくの意見ですが。

古典は難しい、みたいな印象があると思うんです。でもそれって、「古典が難しい」んじゃなくて、ただ「腐った言葉にあたった」だけなんじゃないかなって思う。

ぼく個人の願望としては、古典を新訳で読みたいわけです。

だから、光文社古典新訳文庫は、とっても大好き(になる予定)なのですが。

話がそれましたが、『哲学入門』に戻って。

そこで、本屋を物色していて目についたのが、バートランド・ラッセル『哲学入門』

ぼく、大学でちろっと数学をかじってましたが、ラッセルといえば数学の世界ではたびたび目にする人物でした。

(他にもラマヌジャンとか、オイラーとか、ヒルベルトとか、ガウスとか、ユークリッドとか、ワイルズとか、エルデシュとか)

ラッセルといえば、ラッセルのパラドクスが有名ですね。

村人の髪の毛を切る床屋のオヤジの髪は誰が切るんだい? 的な。集合の集合についての話。集合の集合の集合って何さ、みたいな。

ラッセル自信、数学の基礎論部分の人だとは認識してましたが、ましてや哲学までやっているとは。

その前に読んでいた、『本の「使い方」』の影響をもろ受けて、初めの5ページを読みました。

何とかわかる。いける!

そう思ってレジに持っていき、読み始めたわけです。

結果。

何言ってんのかわかんねー、でした。

この感覚、覚えがあります。

本を読み始めたころ、トレーニングだって言って「人間失格」を1ヶ月かけて読んだ時の感覚に似ています。

読んだはいいけど、何にもわかんなかったあの感覚に。

でも今では、人間失格を普通に読めます。読めるどころか、ものすごく面白いと思います。

だから、この哲学入門も、この先読書を続けていけば、いつかわかる日が来るのかな、って思います。

その時は、ものすごく興奮して、豊饒な世界が待っているのかと思うと、今から少し待ち遠しい。

 

 

総括

技術系の本を一冊も読んでなかったので、2月期は技術系の本を読んで行きたい。

あと、このエントリとして最後の言い訳。

ものすごく眠くて、頭からっぽで書いたエントリーだから、目的なく書いてるから、とても内容のないエントリになってる気がする。

全く読む人のことを考えてなくて、省略とかひどいと思う。

頑張って書けよ、って思わなくもないけど、ブログにまでそんな頑張る意味ある? と思わなくもない。

なぜなら、実はこれは3つ目のエントリだから。

2つ目の非公開になっているほうのエントリは、あーでもないこーでもないと悩んで、結局収集がつかなくなってしまったのです。

意味のある文章を書くのは大事だけど、エントリ埋めるために文章書いたっていいじゃない、と思わなくもない。

【雑記】はじめましてのごあいさつ

どうも、初めまして。 三河豊田(みかわとよた)です。

ブログを始めてみんとてすなり、という感じで始めてみます。
一応、目的としては、連絡用、また自分がどんな感じにものを考えていったのか、 そういう動物的な反応も残していこう、というような思惑もあったりなかったり。

目指すところは、
(同人作家のブログ+SPOOKTAIL)÷2
といった感じです。

初めてのエントリーで、何か気の利いたことでも書きたいですが、 書きたい内容よりも、書こうとする気持ちのほうが強くて、 ノープラン。

主に連絡用のブログになると思います。



以下、三河豊田の自己紹介的な何か。


出身:アニメ不毛地帯
職業:IT的なサムシング。
好きな作家:伊藤計劃、中村やにお
好きな京アニフルメタル・パニック!TSR。ふもっふ。たまこラブストーリー

よろしくお願いします。